完全失踪日記

Escape from another.

無職はPiTaPaが買えない。(失踪205日目)

f:id:mujiuma:20211210112006j:plain

関西圏の鉄道は、JRが弱く私鉄が強い。

強い私鉄は、ICカードPiTaPaを半強要している。

何が言いたいかというと、

「関西私鉄ではモバイルSuicaが使えない所があって不便極まりない」のだ。

なので、仕方なくPiTaPaの入手を試みた。

軽い気持ちで取得申請をしたが、審査不合格の通知が来た。

ん-。PiTaPa収入がないと入手できないのだ。

PiTaPaカードは他の交通系カードと違って、料金が後払いである。

つまり、前借りするのだ。

だから、信用が低い人はカード発行を拒否される。

無職は不自由だ。

 

退職前にクレジットカードをいくつか作った。

無職になると作れなくなると思っていたからだ。

それらは、2年後位更新時期がやってくる。

その時無職だと更新できないかもしれない。

クレカがないととても困る。

来るべき日のために、3枚位のカードを集中して使っている。

実績で信用を繋いでいくいくしかない。

 

PiTaPは諦め、ICOCAを作った。

 

 

 

失踪者、美術館へ行く。(失踪202日目)

 

f:id:mujiuma:20211207145743j:plain

大阪は美術館や博物館が少ない。

東京と比べると、量と質でずいぶん見劣りする。

京都、奈良、兵庫を加えた関西圏というレベルで考えると、関東圏と比較しても妥当な数なのだろうが・・・。

やっぱ、浪速は「花より団子、食い倒れ」なのだ。

 

大阪市立美術館メトロポリタン美術館展」を観覧した。

ニューヨークのメトロポリタン美術館が改修中なので実現した展覧会らしい。

しかも、東京よりも先に大阪に来たのだ。

美術館へいくのは一年ぶりである。

失踪しても美に触れるてもいいだろう。

 

お目当ては、たくさんあるが、

特に注目は、エル・グレコセザンヌ、だった。

やはりセザンヌは素晴らしい。西洋絵画の一つの極致だと思う。

意外だったのは、ルノアールに見惚れてしまったことだ。

そもそも、ルノアールは輪郭がボンヤリしてて全く好みじゃない。

その点でセザンヌとは真逆だ。

だが、実物を目にしてその印象は一変した。

ルノアールは、美そのものだった。

やはり好きではないが、魅入られた。

その美を畏れた私は、衝動を覚える。

この絵に近づき、両手で持ち上げ、床に叩きつけ、両足で踏みにじる。

この絵を、この美を破壊したい衝動に駆られる。

やはりこの絵が有する美は本物だ。

 

今の私は美の対極にある。美と共に生きるなどできはしない。

だから、美をなきものにしたいのだ。

私は、美に恐怖しながら生きる。

今日もやることないなんて、何と素晴らしい。(失踪196日目)

f:id:mujiuma:20211201143552j:plain

目が覚めても、時計も見ず、またうつらうつらする。

寝るのにも飽いて、だらりと起き上がり、トイレに行く。

ぬるいココアを飲む。朝の糖分補給がゆるやかな目覚めを促す。

今日も、やれねばならぬ事は何一つない。

「やることない」なんて、なんと素晴らしいことか。

自分以外の何者かに感謝したくなる。

 

「仕事辞めてなにするんだ?」

退職前によく聞かれた質問だ。

「何もしない」

そう、答えてもだれも信じなかった。

「「何もしない」を続けるなんて不可能だよ。」

「いや、できると思うよ。そして、やればどうなるかが知りたいんだ。」

 

「何もしない」を続ける。

それは、ゆっくりとどこかへ落ちていく感覚。

落下速度を感じない程の重力に支配された感覚。

ほぼ宙に浮いているといっていい。

ふわふわと空を漂う。

外は強風だが私の意識は無風。

この感覚が好きだ。

 

 

風が吹けば無職が笑う。(失踪188日目)

f:id:mujiuma:20211123140720j:plain

急に寒くなった。

寒いとよく眠れる。いつまでも寝ていられる。

目覚めても、時間を確認せず、二度寝する。

至福の時である。

 

寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。

これこそが無職の最高の特権。

私は無職という名の貴族になったのだ。

卑しく、貧しく生まれた者が最後に得た豊穣。

寒かろうが、暑かろうが、関係ない。

早起きして、あくせくと働く者たち、ご苦労様。

私はニヤニヤして二度寝いたします。

 

そういえば、今日は祝日だ。

風の音で目覚め、眼下の世界がいつもより静かなのでそれに気付く。

 

 

私はドアの鍵をかけない。(失踪181日目)

f:id:mujiuma:20211116135843j:plain

私の実家は玄関の鍵をかける習慣がなかった。

実家は田舎で安全だったこともあるが、そもそも玄関に鍵がなかった。

まあ、家財道具のほとんどは貰い物か拾い物で、当然金庫なんぞあるはずもなく、鍵は必要なかった。ある意味、持たざる者は強いよ。

 

そして今、私は再び玄関の鍵をかけない生活をしている。

私が鍵をかけない理由。

①面倒だから

②大した家財道具はない

③他人の住居

 

だが、そんなことは表面的なことで、本当の理由は「何も所有したくない」からだろうと思う。私の中の価値判断では、「所有」=「不自由」なのである。

物心ついた時から、不自由さを感じていた。

いつもこの不自由さから逃げ出したいと思っていた。

私は、この不自由さから逃げ続け、失踪に至っている。

だから、不自由を感ずるものすべてを遠ざけようとするのだ。

部屋に鍵をかけるとき、私は私の所有を認めることになる。不自由の一つを甘んじて受け入れることになるのだ。

 

この不自由の正体は何か?

そろそろ決着をつけようではないか。

不自由さは、私の生まれである。門地である。

私は私の生まれから解放されたいのだ。

 

私は「親ガチャ」外れたから、ガチャ玉捨てたのだ。